Mark Hara's Blog

よりよい日本・よりよい世界を考える

終末論的世界観とは何か?

 キリスト教の基礎となったのはユダヤ教です。聖典の宗教としてのユダヤ教は、バビロン捕囚という国家の崩壊を経て成立しました。それ以前の精神的な拠り所だった都エルサレムの神殿を失ったことを契機として、それまでの自分たちと神との関わりの歴史をまとめ、なぜ神が自分たちに国家の崩壊という試練を与えたのかを考察しました。そして、その理由を、自分たちが神の心に反することをしてきたからだと考え、神の心とは何かを考察しました。聖典の宗教としてのユダヤ教は、破局を乗り越えて成立したと言えます。国家の崩壊という破局の中にあって、国家の再建、都エルサレムの再建という希望を語りました。

 それに対して、キリスト教の文書である新約聖書には、終末論的世界観が色濃く反映されています。イエスにも、パウロにも、終末論的世界観が濃厚に見られます。終末論的世界観とは、近い将来の破局を予見し、その将来から現在を見、さらに破局の彼方に何らかの希望を見る世界観です。彼らが親しんできたユダヤ教聖典は、バビロン捕囚という破局とその意味、その後のエルサレム再建が大きなテーマでしたから、再び破局がおとずれるというイメージを持ったことは、不思議なことではないと思われます。

 「サンタクロースなどいない」という見方で新約時代の終末論的世界観を見ると、「結局、世界が終わることはなかった。終末論的予言は外れた。終末論は嘘だった。だから、そんなことを信じる人は阿呆である」ということになって、それでおしまいです。確かに世界は終わりませんでしたが、西暦70年にはエルサレムは再び破壊され、2世紀にはイスラエル国家は滅亡し、第二次世界大戦後にイスラエルが再建されるまで、イスラエル国家は歴史から消えました。近い将来、破局がおとずれるという新約時代の認識は、ある意味でそのとおりになったわけです。しかし、それは、彼らが何か超自然的な予知能力を持っていたということではなく、新約時代のイスラエル国家はすでにローマ帝国に支配されていたわけですから、時代の雰囲気から自然な直感として将来の破局をイメージしたことは、不思議なことではないと思われます。

 個人の一生を考えた場合も、個人の死は必ずやって来ます。無病息災を願う呪術はどこかで必ず破綻し、個人の死が必ずやって来ます。また、地球のことを考えた場合も、東南海大地震や富士山の噴火は今世紀中に起こる可能性が高いと考えられていますし、地球環境の劇的な変化によって、海面が上昇する可能性も考えられます。さらに宇宙のことを考えた場合も、太陽の死や太陽系の終焉は必ずやって来ると考えられています。さらには、全宇宙の熱的終焉や再収縮を考えることもできます。歴史を考えた場合も、米国の衰退、中国の強大化、日本の独立の危機という将来を考えることもできます。

 呪術的世界観は、現在から将来を希望的に見る世界観であると考えられます。それに対して、終末論的世界観は、将来の破局から逆に現在を見、さらにその破局の彼方に何らかの希望を見出そうとする世界観であると言えます。終末論的世界観は、聖書の世界観の重要な要素ですが、日本の歴史においては、中世の末法思想に似た要素があったと思われますが、現在の日本の文化にはどちらかというと希薄な要素なのではないかと思われます。