Mark Hara's Blog

よりよい日本・よりよい世界を考える

普遍は存在するのか?

 哲学史では、普遍は存在するのかという問題は、オッカムのウィリアムが提起した普遍論争を指します。すなわち、プラトンの言うイデアは実在するのかという問題のことです。その問題については、「無限は実在するのか?」で触れましたので、そちらをご覧ください。

 実は、普遍の問題は、一般的にはあまり指摘されていませんが、世界標準となっている普遍的人権思想と日本の国家神道との対立の問題として現在の問題であり、日本社会にとっては生活の質や幸福度を左右する重大な問題なのです。

 数学と自然科学、そしてそれらに基づく科学技術は、人類の文明社会で受け入れられています。文化史的には、数学は古代ギリシャの世界観に起源を持っていますし、自然科学はキリスト教の世界観に起源を持っていますが、現在は、それらは人類に普遍的に成り立つものとして文明社会で受け入れられていて、国家神道もそれらを国家に繁栄をもたらす「洋才」として受け入れています。

 それでは、世界人権宣言が謳っている普遍的人権はどうでしょうか?人権問題は内政問題でしょうか?それとも、人権は普遍的な権利なので、各国政府には人権を否定したり、抑圧したりする権利はないと見なすべきなのでしょうか?国連が採択した世界人権宣言を基礎とする様々な人権条約の体系から言えば、人権は、内政問題ではなく、普遍的な権利であるということになります。

 ところで、日本の教育基本法が2006年(平成18年)に全面改正されたことをご存じでしょうか?文部科学省のサイトに教育基本法の新旧対照表があります。改正前の前文にあった「普遍的」という文言が現行法では削除されています。自民党の日本国憲法改正草案対照表においても、現行憲法の前文にある「人類普遍の原理」という文言が改正草案では削除されています。なぜこのような現象が見られるのでしょうか?

 人類史上、文明と言えるものとしては、具体的には、古代のローマ帝国や中世の神聖ローマ帝国ラテン語文明や、中国の漢字文明などがありました。現代では、言語としては、英語がそのような地位にあると思われます。現代では、また、ほとんどの人が洋服を着ています。すなわち、西洋文化が事実上、文明の地位にあると言えます。文明には中心があり、周辺諸国は中央の文化を身につけることによって野蛮ではなく文明社会の一員であると見なされるという構造があります。文明には、そういう意味で、ある程度の普遍性があります。すなわち、文明は文明圏を形成し、その範囲で普遍性を持ちます。

 日本は、世界史的な文明になったことはないし、今後もそうなる可能性は低いでしょう。国家神道の世界観では、文明とは勢力が大きい文化にすぎず、日本の歴史や文化の唯一無二性にこそ価値があると考えていると思われます。日本政府は、外交においては、普遍的人権を認めるかのように振る舞いながら、内政においては、人権は内政問題だと考えているように思われます。すなわち、内政方針が「本心」であり、「外面(そとづら)」は「仮面」であり、「偽りの姿」であるということになると思われます。

 他方、西洋文明の一つの基礎であろうと考えられるローマ・カトリック教会は、国連が採択した世界人権宣言を基礎とする様々な人権条約の体系を基本的に認めながら、人権の本質的な根拠を自然法に見ています。すなわち、人間の共通の本性が人間の尊厳の根拠であると考えていると思われます。ちなみに、カトリックとは普遍という意味です。

 国家神道は、人間観は文化の一部であり、各国の文化には独自性があってよいのであり、各国には人間観を含む独自の文化を維持し、継承する権利があると考えていると思われます。他方、西洋文明は、人権は人間の共通の本性が要求するものであり、ゆえに普遍的であり、各国には人権を否定したり、抑圧したりする権利はないと考えていると思われます。私は、この問題については、西洋思想が正しいと考えていますが、国家神道の思想は日本では依然として強力であり、日本における生活の質や幸福度を左右していることは確かです。人権が普遍的かどうかという問題は、日本社会にとっては重大な問題なのです。

 現代の国際社会は、人権は人間の本性に根拠を持つがゆえに普遍的であるという原則を認めています。他方、国家神道は、普遍的人権思想は西洋思想にすぎず、日本には該当しないと考えていると思われます。このような国家神道の思想は、日本社会の生活の質や幸福度を上げる方向には作用せず、むしろ下げる方向に作用していると思われます。さらに、日本経済にプラスには作用せず、むしろマイナスに作用していると思われます。