Mark Hara's Blog

よりよい日本・よりよい世界を考える

キリスト教の神は存在するのか?

 日本人の多くは一神教に対して否定的な考えを持っていると思われます。「もし全知全能の神が存在するなら、この世に悲惨なことが絶えないことの説明がつかないではないか。だから、全知全能の神など存在しないのだ」と考えている人が多いのではないでしょうか。

 他方、日本人の多くは初詣をします。そこで参拝している神道の神や仏教の如来や菩薩は存在するのでしょうか。参拝は宗教的な行為です。神仏を拝む人は、その行為に意味があると考えているから、その行為を行なうと考えられます。

 神仏が存在するかどうかを問うても、あまり生産的ではありません。なぜなら、確かめようがないからです。以前に「宗教とは神話と儀式から成る象徴の体系である」という宗教の短い定義をご紹介しました。神を人間が長い歴史の中で作り出してきた擬人的な象徴と見なし、「人間はなぜそのような象徴を作り出したのか、それらの擬人的な象徴は何を意味しているのか」を問うことが、学問的には意味のある問いになります。

 人間は祈る生き物です。それは人類共通の性質であると考えられます。

 ブラウン(Delmer M. Brown, 1909-2011)によると、神道の神に祈る人は、無病息災、家内安全、商売繁盛、国家の安泰など、この世の共同体や個人の生が維持され、強化され、繁栄することを祈ります。その事実から逆に考えれば、神道の神には、そのようなものをもたらす力があると考えられていることになります。すなわち、神道の神は、この世の生命力の象徴であると考えられます。

 同じような分析をキリスト教の神に対して行なうと、どのようなことが言えるでしょうか。

 ルター派神学者ティリッヒ(Paul Tillich, 1886-1965)は、「神とはこの世界の中の一存在者ではない。そういう意味では、〈神は存在する〉という言い方は正しくない。神とは、およそ何かが〈ある〉と言うときに想定されている〈ある〉ということそれ自体、すなわち〈存在そのもの〉のことである」と言っています。なぜ世界があるのか、なぜ私がいるのか。また、なぜ世界はこのような世界なのか、なぜ私は私であって彼や彼女ではないのか。このような問いには答えがないでしょう。しかし、このような問いを人間は問います。それを存在の神秘と呼ぶことにすれば、キリスト教の神は存在の神秘の象徴であると考えられます。

 ユダヤ系の哲学者レヴィナスEmmanuel Levinas, 1906-1995)は、ナチスによって親族のほとんど全員を殺された人ですが、彼は他者について深く考察した人でした。他者の心は人間にとっては謎であり続けます。また、他者の心を自分の好きなように変えることはできません。人間は物理的には他者を殺すことができますが、その他者の「顔」は「私を殺すな」と言い続け、「あなたは私に何をしたのか」と問い続けるとレヴィナスは言っています。他者とは、私に倫理を問う存在です。キリスト教の神は他者の象徴であるとも考えられます。

 苦しみはないに越したことはありませんが、苦しみが全くないという人生も考えにくいでしょう。苦しみを経験するのは、人間だけではないと思われます。現代はプラスチック文明の時代で、食品や医薬品の容器や包装などを考えると、プラスチックがなかったらとても不便ですが、プラスチックのゴミによって海の生き物たちが苦しんでいるという事実はあると思われます。しかし、プラスチックそのものの苦しみということを考えることはできるでしょうか。苦しみは、尊厳ある者だけが経験し得ることなのではないかと思われます。芸術家たちは様々な苦しみを作品に表現してきましたが、そのことによって苦しむ者の尊厳を表現していると考えられます。大きな苦しみを経験したイエスという人を神の子としているのは、他者の苦しみに目を向けることで、他者の尊厳、人間の尊厳に目を向けるという意味があると思われます。

 以上のように考えると、キリスト教の神は、存在の神秘、他者の神秘、苦しみの神秘などの象徴であると考えられます。