Mark Hara's Blog

よりよい日本・よりよい世界を考える

言語の自然習得と意識的学習の関係

 言語は自然習得できるに越したことはありません。しかし、日本にいる日本人で第二言語を自然習得できる人は、よほど恵まれた人でしょうね。

 私が通っていた高校では、毎年1人がAFSによる1年間の米国留学をしていました。私も行かないかと声をかけられましたが、その当時の制度では、帰国後、1年下の学年に入ることになっていましたので、行く決心がつきませんでした。それに行っていたら、違った人生だったでしょう。その制度で1年間の米国留学をした人を何人か見てきましたが、全員自然な英語が話せるようになっていました。

 私が大学に就職したときの学生で、後にその大学の教員になった人がいますが、その人は、たしか9年間だったか、米国に留学し、米国で心理士になりました。その人は、留学中に、家を借りて、米国人と共同生活していましが、自然な英語が話せるようになっていました。

 しかし、考えてみると、自然習得のみというのは、かなり特殊な場合であると思われます。例えば、学校に行けず、文字が読めない人たちが世界にはまだ多数おられますが、その人たちは、自然習得のみの人たちということになると思われます。普通は、学校で、母語の意識的学習をします。

 意識的学習のみというのも、かなり特殊な場合でしょう。例えば、古代エジプトの言語の研究者などです。また、神学部では、ヘブライ語ギリシャ語、ラテン語などを学ぶわけですが、それらの古典語学習も、普通は意識的学習のみになります。しかし、それらの古典語を儀式の中で使っている場合があり、今は探せば YouTube などで見つけることができるでしょうから、完全な死語ではなく、それらが「生きた言語」として使われている状況は、一応あります。

 私の場合は、中1のときに、米国人の修道士から、発音記号の読み方を習いました。その一方で、好きな英語の歌をステレオで聴いていました。その後、29歳から34歳まで、4年9か月間、米国に留学しました。発音記号というのは、一応、区別される音の数だけあるわけですが、現実の英語の発音は、国によって、地方によって、微妙に違っています。今は、PodcastYouTube で、自然な英語の音源がいくらでもあります。とくに、私が中学高校のときにはめずらしかった原稿のない英語、つまり考えながら話している英語の音源がいくらでもあるので、その点は別世界になっています。自然習得に近い環境を得ることも一応可能になっていると思われます。

 というわけで、意味のある良質な意識的学習をしながら、自然習得的要素をできるだけ取り入れるということが、第二言語習得の現実的な方法だろうと思われます。