Mark Hara's Blog

よりよい日本・よりよい世界を考える

「キリストはあなたのために十字架で死んだ」とはどういうことか?

 私が京大文学部でキリスト教学を学び始めたとき、最も理解に苦しんだことは、「キリストはあなたのために十字架で死んだ」という教義でした。それ以外にも、キリスト教終末論的世界観も理解しにくいことでしたが。

 イエスの時代は、邪馬台国もまだなかったであろう時代でした。イエスが約2000年後の日本人である私のことを知っていたはずはなく、イエスが私のために十字架で死んだとは、普通に考えれば、おかしなことでした。私は、「キリストはあなたのために十字架で死んだ」という教義を理解したくて、当時付き合っていた女性が行っていた日本キリスト教団の教会で老牧師が行なっていたキリスト教入門講座を聴くことにしました。しかし、同じ内容の講座を2シーズン聴きましたが、理解できませんでした。理解できないまま、私はその教会で洗礼を受けました。ただし、「あなたに差し出されている無償の愛をなぜ受け取らないのか」という神秘的な感覚はありました。この教義の意味を私なりに理解できるようになるのには長い年月がかかりました。

 旧約聖書イザヤ書という文書があり、新共同訳聖書では、その52章13節から53章の終わりまでの部分に「主の僕の苦難と死」という見出しが付いています。その部分は詩なのですが、人称代名詞が何を指しているのか聖書の世界観に通じていないと理解しがたく、難解な内容です。しかし、概要としては、無実の罪で処刑された人がいたことを描いていることがわかります。死刑制度がある以上、必ず無実の人が処刑されるということが起こります。その人が無実であることを知っていた場合、その処刑が不当だという強い感情が生じるでしょうし、なぜ神はそんな不正義を止めないのかという疑問が生じるでしょう。この詩は、全知全能の神の存在から理解しようとすれば、まったく理解できないものになります。

 聖書には「人権」という言葉は出てきません。人権という概念は近代的な概念だからです。「人間の尊厳」という言葉も出てきません。新共同訳聖書で「尊厳」を検索すると、4か所ヒットしました。1か所は「白髪は老人の尊厳」という用例で、それ以外は「神殿の尊厳」、「エルサレムの尊厳」、「主の尊厳」で、4か所中2か所は、いわゆる「旧約続編」の箇所です。

 聖書は、歴史的な文書ですので、その内容は完全無欠ではありません。聖書が成立した時代には、近代科学はありませんでしたので、現代の科学的知識から見ると、おかしなことが書かれています。また、現代の人権思想から見ると、女性差別、異民族差別などが見られます。しかし、聖書には、人権思想の萌芽も見られます。

 人権や人間の尊厳は、それが否定されたときに、それを見た人の心に、「これは不当だ」、「これは正義ではない」という強い感情を呼び起こします。今も国内で、世界で、不当な人権の否定、不当な人間の尊厳の否定は起こっています。そして、私はそれらのことと無関係ではありません。すべての人は私の隣人だからです。「キリストはあなたのために十字架で死んだ」という教義は、現実的に解釈すれば、そのような意味を持つと考えています。キリストの十字架に関する教義には、個人の救いという要素はあります。しかし、その教義を個人の救いの問題に限定してしまったら、その教義の社会的な意味が失われると思います。

終末論的世界観とは何か?

 キリスト教の基礎となったのはユダヤ教です。聖典の宗教としてのユダヤ教は、バビロン捕囚という国家の崩壊を経て成立しました。それ以前の精神的な拠り所だった都エルサレムの神殿を失ったことを契機として、それまでの自分たちと神との関わりの歴史をまとめ、なぜ神が自分たちに国家の崩壊という試練を与えたのかを考察しました。そして、その理由を、自分たちが神の心に反することをしてきたからだと考え、神の心とは何かを考察しました。聖典の宗教としてのユダヤ教は、破局を乗り越えて成立したと言えます。国家の崩壊という破局の中にあって、国家の再建、都エルサレムの再建という希望を語りました。

 それに対して、キリスト教の文書である新約聖書には、終末論的世界観が色濃く反映されています。イエスにも、パウロにも、終末論的世界観が濃厚に見られます。終末論的世界観とは、近い将来の破局を予見し、その将来から現在を見、さらに破局の彼方に何らかの希望を見る世界観です。彼らが親しんできたユダヤ教聖典は、バビロン捕囚という破局とその意味、その後のエルサレム再建が大きなテーマでしたから、再び破局がおとずれるというイメージを持ったことは、不思議なことではないと思われます。

 「サンタクロースなどいない」という見方で新約時代の終末論的世界観を見ると、「結局、世界が終わることはなかった。終末論的予言は外れた。終末論は嘘だった。だから、そんなことを信じる人は阿呆である」ということになって、それでおしまいです。確かに世界は終わりませんでしたが、西暦70年にはエルサレムは再び破壊され、2世紀にはイスラエル国家は滅亡し、第二次世界大戦後にイスラエルが再建されるまで、イスラエル国家は歴史から消えました。近い将来、破局がおとずれるという新約時代の認識は、ある意味でそのとおりになったわけです。しかし、それは、彼らが何か超自然的な予知能力を持っていたということではなく、新約時代のイスラエル国家はすでにローマ帝国に支配されていたわけですから、時代の雰囲気から自然な直感として将来の破局をイメージしたことは、不思議なことではないと思われます。

 個人の一生を考えた場合も、個人の死は必ずやって来ます。無病息災を願う呪術はどこかで必ず破綻し、個人の死が必ずやって来ます。また、地球のことを考えた場合も、東南海大地震や富士山の噴火は今世紀中に起こる可能性が高いと考えられていますし、地球環境の劇的な変化によって、海面が上昇する可能性も考えられます。さらに宇宙のことを考えた場合も、太陽の死や太陽系の終焉は必ずやって来ると考えられています。さらには、全宇宙の熱的終焉や再収縮を考えることもできます。歴史を考えた場合も、米国の衰退、中国の強大化、日本の独立の危機という将来を考えることもできます。

 呪術的世界観は、現在から将来を希望的に見る世界観であると考えられます。それに対して、終末論的世界観は、将来の破局から逆に現在を見、さらにその破局の彼方に何らかの希望を見出そうとする世界観であると言えます。終末論的世界観は、聖書の世界観の重要な要素ですが、日本の歴史においては、中世の末法思想に似た要素があったと思われますが、現在の日本の文化にはどちらかというと希薄な要素なのではないかと思われます。

サンタクロースは「宗教」か?

 呪術と宗教の定義から言えば、てるてる坊主は呪術であると言えます。「あした天気にしておくれ」という現実的具体的な効果を期待して、一定の特徴を持つ人形を作り、それを一定の仕方でつるすわけですから、儀式を行なっていることになります。

 お守りを神社で買い求めて、それを携帯するという行為も、呪術であると言えます。そのお守りに対して何らかの儀式がすでに行なわれているものと信用して、それを身につけることで事故や犯罪に巻き込まれないという現実的具体的な効果があることを期待して、買っていると思われます。

 それでは、小さい子どもがいる家庭がサンタクロースの行事を行なうという行為はどうでしょうか?サンタクロースがどこか北の方にいて、子どもたちをいつも見ており、クリスマスの未明にプレゼントを持ってきてくれるという神話があり、それを再現する儀式を小さい子どもの親が行なっていることになりますので、呪術と宗教の定義から言えば、宗教であると言えます。宗教法人等の組織があるわけではありませんが。そして、その儀式によって何らかの現実的具体的な効果が期待されているわけではなく、クリスマスの朝にプレゼントを見つけた子どもが喜ぶという当たり前のことが期待されているだけです。

 それでは、子どもから見た場合、プレゼントを親に直接買ってもらうのと、サンタクロースからもらうのと、どう違うのでしょうか?どちらにしても、子どもは同じプレゼントをもらうわけですが。子どもは、保護者のもとで生活するしかなく、意のままにならないことが多く、大人とは違ったストレス下で生活していると思われます。サンタクロースがプレゼントをくれるということは、親ではない何らかの超越的な存在が「私はあなたを知っている。あなたはよい子だ。だから私はあなたにプレゼントをあげるのだ」と言っていることになるでしょう。サンタクロースの行事は、そういう意味を持ちます。

 サンタクロースの神話に出てくるサンタクロースが、神話に描かれているとおりの在り方で存在するわけではないことは明らかです。空を飛ぶトナカイのソリなど存在しません。だからといって、「サンタクロースの神話は嘘であり、作り話であり、それを信じる人は阿呆である」と言ってしまえば、それでおしまいで、その神話から何らかの積極的肯定的な意味を見出すことはできません。しかし、受け取り方によっては、「サンタクロースとはあなたのことだ。あなたがサンタクロースになりなさい。そして、小さい人の尊厳を認め、小さい人を称える者になりなさい」という意味を見出すことができますし、そのような意味で「サンタクロースは、いる」という言い方もできます。

 宗教の神話についても、同じようなことが言えます。

日本人の宗教性 自分の場合

 私の母は、私をキリスト教系の幼稚園に入れました。評判がよかったからだと思われます。後でわかったことですが、その幼稚園はプロテスタントで、その中でも福音派と呼ばれる、どちらかというと保守的な教派でした。小学校は、母がかつて教員をしていた地元の公立の小学校に行きました。6年生のときに、母は私を塾に行かせ、評判がよかったカトリック系の中高一貫の男子校に私を行かせました。母は浄土真宗本願寺派の家で育ちましたが、私は、そのような成育歴から、宗教に関しては、キリスト教に親しみを感じていました。

 私が京大理学部の2回生だったときに、母は病死しました。入院したのは2泊3日だけでした。母の病状が悪化したとき、私は十字架と聖画のカードをお守りとして携帯していましたが、その効果はありませんでした。その出来事を契機に、私はキリスト教への関心を失いました。私も日本人として、宗教に呪術的な効果を求めていたことになると思われます。

 父の両親は、私が通った幼稚園の隣の教会に在籍する福音派キリスト教徒でしたが、父はそれが嫌いで、それ以前の家の宗派だった臨済宗の寺院に母の葬儀を依頼しました。臨済宗は、積極的無神論とでも言うべき宗派だったので、ある程度慰めになった気がします。諸行無常の世界観から見れば、人が死ぬことは何も不思議なことではありません。しかし、私は、半年くらいは鬱状態に陥りました。

 私は、京大理学部の4回生のときに、物理学者になりたいという夢が破れ、進路に迷いました。そんなときに、同志社大学神学部の学生だった女性と出会いました。そのことを契機に、私は再びキリスト教に関心を持ち、京大文学部でキリスト教学を学ぶことにしたのです。その後、同志社大学の大学院に進みました。その後、その女性と結婚し、米国に留学でき、私立大学に就職することができました。

 私は、キリスト教系の幼稚園、中学、高校で学び、大学、大学院でキリスト教学を学び、さらに大学でキリスト教学を教えることになりましたが、それでもキリスト教の世界観は、日本人である私には理解することが難しく、ある程度理解できたと思えるようになるまで、長い年月を要しました。親がキリスト教徒であったり、牧師であったりする同級生の中には、二十代でよくわかっていた人たちも少なくありませんでしたが、それは私には無理なことでした。それでも、その道に進んでよかったと思っています。

呪術と宗教はどう違うのか?

 日本人の多くは、自分を無宗教であると考えています。そして、宗教とは、ありもしないことを信じることで、益よりも害のほうが大きく、ないほうがよいものと考えていると思われます。端的に言えば、宗教を信じている人は阿呆であると考えていると思われます。

 人類の宗教文化別人口を見ると、キリスト教文化圏が最大の人口を擁していて、その次がイスラム文化圏です。これら2つの宗教文化圏の人口を合わせると、人類の半数を超えています。人類には、阿呆のほうが多いのでしょうか。

 宗教に弊害があることは事実です。宗教の最大の弊害は、人権の抑圧につながる危険性であると思われます。

 宗教は複雑な現象ですが、宗教の簡単な定義としては、「神話と儀式から成る象徴体系」という定義があります。儀式を行なうという意味では、呪術もまた、儀式を行ないます。呪術と宗教は、どのような関係にあるのでしょうか。

 呪術は、儀式によって現実的具体的な効果がもたらされることを期待して行なわれます。人類の歴史においては、雨乞い、豊作豊漁祈願、安全祈願、戦勝祈願、病気治癒祈願、呪詛、等が行なわれてきました。多くの場合、災いを遠ざけ、福を招くことを目的として呪術は行なわれます。呪術の焦点は、現実的具体的な効果にあります。日本人の多くは、無宗教であると言いながら、神社参拝をしています。一定の作法に従って参拝することで、災いを遠ざけ、福を招く効果があることを期待していると思われます。

 それに対して、宗教の機能の一つは、呪術が失敗して、災いがふりかかったときに、その災いの中に何らかの積極的肯定的意味を見出し、災いを乗り越えようとすることにあると思われます。歴史的にも、聖典の宗教としてのユダヤ教は、バビロン捕囚という国家の崩壊を経て成立したと考えられます。また、創唱宗教とされる仏教やキリスト教は、師の死という危機を乗り越えて成立したと考えられます。歴史的には、呪術のほうが宗教より先に出現したと考えられます。

 呪術も宗教も儀式を行ないますが、呪術の目的は災いを遠ざけることにあり、宗教の機能の一つは災いの中に意味を見出し、災いを乗り越えようとすることにある、と言うことができると思われます。

参考:芦名定道『宗教学のエッセンス 宗教・呪術・科学』北樹出版、1993年

神学部を卒業しても大卒になるのはなぜか?

憲法第89条

公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

 日本国憲法には上のような条文があります。しかし、宗教系の私立学校への公的な補助は行なわれています。なぜそれが可能なのでしょうか?学校法人は宗教法人ではありません。また、学校法人が設置している大学・短大・高専に対しては、文部科学大臣が認可を与えて、監督していますし、幼・小・中・高に対しては、都道府県知事が認可を与えて、監督しています。

 また、日本国憲法には、下のような条文もあります。

憲法第26条

すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。

 私立学校への公的な補助には、国民の教育を受ける権利をできるだけ実質的なものにする目的があると思われます。

 もう一つ留意すべき点として、キリスト教神学に関しては、19世紀のドイツで近代神学が成立し、それが世界中に波及したということがあります。すなわち、それまでは、神学は神についての思弁の学でしたが、近代神学の成立以降は、神についての人間の思想や文化を研究する学問となりました。すなわち、近代神学は、実在する文献を研究する人文学の一分野となったわけです。そのようなわけで、世界の名門大学には神学部があることが多いわけですが、神学部を卒業しても大卒となります。日本では、同志社大学関西学院大学上智大学などに神学部があり、そこを卒業すれば、文学部を卒業したのと同様に、大卒となります。また、他の宗教の学問についても、キリスト教神学と同様に近代化されたので、大学で仏教学や神道学を専攻しても、卒業すれば大卒となります。

 要するに、現代においては、神学とは、神を論じる学問ではなく、人間の宗教思想や宗教文化を研究する人間学である、と言えます。

参考:日本国憲法の誕生(国立国会図書館)

Memento mori このブログについて

 Memento mori は、ラテン語のことわざで、その英訳は Remember that you die, 和訳は「汝の死を覚えよ」です。

 私も年齢が60歳を超えまして、いつまで生きられるかわからないという気持ちになってきました。長生きしたいとは思っていますが、こればかりは「神のみぞ知る」です。私が死ねば、私の頭の中にあるものは失われます。その中には、それを知るのに長い年月を要したものもあります。

 そういうわけで、自分の頭の中にあることの中で多少とも公益性があると思われることを書いていこうと考えています。分野としては、人権、政治、宗教、キリスト教、英語、歴史、などを予定しています。できるだけ間違いがないように気をつけていきますが、このサイトの内容を利用される場合は、確かな資料によって確認されることをお願いいたします。また、過去の記事を随時修正する可能性がありますので、ときどきブラウザの再読み込み(右巻きの矢印)をクリックして、最新版を reload してください。