Mark Hara's Blog

よりよい日本・よりよい世界を考える

人権の根拠は何か?

 人権は、国際条約、憲法、法律等によって定められている具体的な権利です。抽象的な観念ではありません。条約、憲法、法律等は順守すべきものです。

 人権に関する国際条約体系の原点は世界人権宣言です。前文と30の条文から成るものですが、一度も見たことがない方は、一度どのようなものなのか、第1条だけでも、見ておかれることをおすすめします。世界人権宣言を原点として整備されてきた人権に関する国際条約にどのようなものがあるのかについては、ヒューライツ大阪のサイトにある「資料館」で確認できます。日本の憲法については、国立国会図書館のサイトにある「日本国憲法の誕生」というサイトが、関連の資料も掲載されていて、充実しています。また、日本の法令については、「e-Gov法令検索」で検索して閲覧できます。

 他方、条約、憲法、法律等は、人間が原案を書き、政治的な過程の中で修正され、確定され、効力を持つに至っているものです。そういう意味では人為的なものですし、完全無欠でもないでしょう。

 それでは、人権は、人為的、文化的なものにすぎないのでしょうか?人権には、客観的、普遍的、実在的な根拠はないのでしょうか?

 日本の右翼思想においては、伝統的にそう考えています。人権は、西洋思想であり、キリスト教思想であって、人為的、文化的なものにすぎず、国際的な体面上、守るフリをせざるを得ないが、本当は守る必要のないものである、と。

 他方、西洋思想では、人権の根拠は自然法であると考えています。自然法とは、自然法則という意味ではなく、人間が生まれながらに心の中に持っている法、すなわち神がすべての人の心に生まれながらに与えている理性と良心のことです。「自然」という言葉には、「大自然、天地万物、人為が加えられる以前の状態」という意味がありますが、「生まれながらの」という意味もあります。

 何を自然と考えるかは、非常に重要で、それによって形成される社会も違ってくると思われます。自然が生存闘争の場であるなら、個人は競争せざるを得ませんし、お互いが敵になってしまいます。国家間でも、武力を増強して、他国に負けないようにして、独立を守らなければならないということになるでしょう。他方、自然法が存在するなら、他者や他国の理性と良心を信頼して、対話や協力が生まれる可能性があることになります。

 人類の歴史を見ると、より破壊力が大きい武器が開発され、拡散されてきたという事実があります。他方、人権理解が進み、それが条約や法律として明文化されてきたという事実もあります。百年単位、千年単位で人類の歴史を見た場合、人権意識が芽生え、自覚され、明文化され、条約や法律、すなわち実定法(現実に存在する法)となっていった過程を見て取ることができます。

 人類は一つの生物です。生物として人類は一つの種です。一つの種として、人類は共通の、すなわち普遍的な性質を持っています。このことは、客観的、実在的な真理です。人間には恐怖や欲望があります。他方、理性と良心があります。どちらが強い性質なのでしょうか。もし恐怖や欲望が理性や良心より強ければ、人類は滅亡するでしょう。

 この問題について、客観的に正しい答えを確定することはできないかもしれません。しかし、人類は、あなたは、私は、どのような未来を、どのような社会を望むのかという選択はできるでしょう。人権の根拠は、条約や法律だけでなく、究極的には人間という生物の性質にあると考えることによって形成される社会や未来があると思います。

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追記:

 英語の nature という言葉には、日本語で言うところの「自然」という意味がありますが、「性質、本性」という意味もありますね。

 世界人権宣言の第1条を書いておきます:「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。」

あなたは民主主義とは何かを端的に説明できますか?

 日本は民主主義の国ですが、あなたは民主主義とは何かを端的に説明できますか?結論を先に言えば、民主主義とは人民主権主義を短くした言葉です。主権とは統治権のことです。ですから、民主主義とは人民が統治者であるという意味です。民主主義とは、統治される人民が選挙によって代表者を選び、人民に選ばれた代表者から成る議会が法律を作り、その法律によって人民が自らを統治する自己統治制度です。

 民主主義国家の選挙においては、すべての成人に一人一票の投票権があります。また、立候補する権利があります。この制度は、すべての人は尊厳と権利とについて平等であり、すべての人には理性と良心があるという人間理解が前提となっています。すなわち、人権思想が民主主義という政治制度の前提となっています。

 人類初の近代民主主義国家はアメリカ合衆国です。同志社を創立した新島襄(1843-1890)は、『連邦志略』という書物を読んで、アメリカでは大統領が選挙で選ばれることを知り、非常に大きな衝撃を受け、なんとしてもアメリカに行きたいという決意を固めました。ただし、その当時の選挙権・被選挙権は、まだ男性に限られていました。アメリカ合衆国第16代大統領エイブラハム・リンカン(1809-1865)の言葉に「一部の人たちを常に、そしてすべての人たちを一時だますことはできるが、すべての人たちを常にだますことはできない」というものがあります。この言葉は選挙による代議制民主主義がなぜ機能するかを言い表した言葉であると言えます。

 民主主義国家においては、立法権、行政権、司法権の三権が分立していますが、これは、人間は権力の誘惑に負けて罪を犯すことが多いという人間理解が前提となっています。

 政治権力の根拠は主権者からの委託にあるわけですが、アメリカの場合は、議員と大統領が市民の投票によって選ばれ、最高裁判所の判事は大統領が指名し、上院が承認することになっています。日本の場合は、国会議員が国民の投票によって選ばれ、国会が内閣総理大臣を投票によって選出し、内閣総理大臣が組閣して内閣を作り、内閣が最高裁判所裁判官を選んでいます。日本の場合、最高裁判所裁判官の人事は国会の承認を必要としませんが、選挙の際、最高裁判所裁判官の国民審査があり、主権者である国民が最高裁判所裁判官を罷免することができる制度となっています。最高裁判所がその他の裁判所の人事を行なっています。日本の場合、国民が選挙で直接選んでいるのは国会議員ですが、内閣や裁判官たちも間接的に選んでいることになります。

何が言語の自然習得を可能にするのか?

 母語というものは、非常に不思議なもので、認知症や記憶喪失になっても、母語での会話ができたりします。母語は脳のよほど深いところに入っているのでしょうね。

 私の知り合いで、第二言語を自然習得したと考えられる人たちは、高校生の時にAFSでアメリカに1年間留学した人たちと20代の数年間、アメリカでアメリカ人と同じ家に住んで共同生活をした人です。しかし、私がアメリカに留学していた時に出会った日系人の中には、一世の女性で、夫が二世で英語が第一言語なのに、日本語しか話せない人がいました。言語の自然習得を可能にするものは何でしょうか。

 私は言語の専門家ではありませんが、私が体験的に思うのは、その言語を習得することが生きるために必要であると脳が判断すれば、その言語を自然習得できるのではないかということです。

 逆に、その言語は生きるためには必要ではないと脳が判断すれば、その言語を自然習得することが困難になるものと思われます。おそらく、言語の習得には多大なエネルギーが必要であり、脳はそもそも大量のエネルギーを消費する臓器であり、それこそ生きるために、脳は省エネルギーをしようとするのではないかと思われます。生きるために必要でないことに対しては、脳が強いブレーキをかけるのではないかと思われます。

 英語の早期教育は、はたして有効なのでしょうか。幼稚園・保育所等の就学前児童にとっては、日本語が生きるために必要であり、日本語の習得に脳が多大なエネルギーを消費する段階にあると思われます。そういう段階での第二言語教育は、非常に難しく、効果を得にくいのではないかと思うのですが、事例的にはどうなのでしょうか。1日1時間程度では、生きるために必要とまでは言えないと考えられます。しかし、インターナショナル・スクールのようなフルタイムの学校だと、英語の習得が生きるために必要になるのではないでしょうか。

 私は、キリスト教主義の幼稚園と中学高校に通いましたが、多くの場合、脳は、キリスト教を受け入れることは生きるために必要でないだけでなく、むしろ日本では生きるためには不利になると考え、強いブレーキをかけてくるのではないかと思います。私の場合は、どういうわけか、幼稚園児だったころから、西洋文明に強い憧れを持っていました。私の場合は、どういうわけか、幼稚園児だったころから、英語とキリスト教に強い関心を持ちました。そういう場合は、自然習得とまではいかなくても、少なくとも脳が強いブレーキをかけてくることはなく、英語の発音やキリスト教の世界観を受け入れやすかったのではないかと自分では思っています。

 生きるために何が必要で何が必要でないと脳が判断するかは、人生に大きな影響を与えるのではないでしょうか。

アメリカと America

 私が中1だったとき、英語の先生はアメリカ人の修道士でした。そのときの授業で、次のようなやり取りがありました。

先生:Repeat after me. "America."

生徒:アメリカ。

先生:No. Not アメー. "America."

生徒:"America."

先生:Good. 

つまり、英語の [e] の音は、日本語のエほどには口が横に開いていないわけです。

 例えば、日本語で、意外なことに対する反応として、「エー!」という音を出すことがあるでしょう。学校で先生が意外なことを言った場合、生徒たちが一斉に「エー!」と言うことがあると思います。そのときの、エの音は、口がかなり横に開いています。

 それに対して、Amazing Grace という歌の最初のほうに、that save a wretch like me という部分がありますが、その [ə retʃ] というところの [e] の音は、日本語のエほどには、口が横に開いていないことが、YouTube などをよく聴くとわかると思います。同じ部分にある a も、発音は [ə] ですので、日本語のアほどには、口は横に開いていません。

 音声学では、母音を説明する際に、口が縦横それぞれにどれくらい開いているかを問題にしますが、世の中には腹話術というものもあります。実際は、口が縦横それぞれにどれくらい開いているかは、気持ちの問題で、口をあまり開けないでボソボソ言う場合もあるわけです。ですから、実際的には、好きな音楽などをよく聴いて、できるだけ真似てみて、その音がどういう音なのかを体得することが、発音を学ぶためのおすすめの方法です。

 日本語の5つの母音の内、ア、イ、エは、口が横に開いている音です。英語では、二重母音を除いた単母音だけを考えた場合、口が横に開く音は意外に少ないと思われます。[æ] と [iː] くらいしかないのではないでしょうか。

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追記:

 Simon and Garfunkel の America の live を聴くと、けっこうアメーと言ってました。"No. Not アメー" と言ったのは、私の先生のクセだったのかもしれません。でも、レコードの音は、けっこう私の先生の発音に近いと思います。

日本語で英語の発音を説明することは可能か?

 Bat は「コウモリ」または野球の「バット」、but は「しかし」ですね。誰もが知っている単語だと思いますが、これらの単語を区別して言うことができますか。また、人がどちらかの単語を言った場合、どちらの単語を言ったのかわかりますか。Bat は [bæt], but は [bʌt] ですね。さて、これらの母音を日本語で説明できるかどうか、やってみます。

 口の力を抜くと、重力であごが下がって、口が半開きになるでしょう。その状態で声を出してみてください。その音が、だいたい [ə] の音です。その音を強いてカタカナで表記すれば、アになるのではないでしょうか。また、口の力を抜いて、口を半開きにしたときの唇の位置を意識してください。前歯より当然少し前に唇が出ているでしょう。

 さて、そこから、口の形を変えて、日本語のオの音を出してください。唇の開き方は半開きのときよりも小さくなり、唇は半開きのときよりもさらに前に出るはずです。

 さて、再び、唇を半開きの状態に戻し、そこから、口の形を変えて、日本語のアの音を出してください。今度は、唇の開き方は半開きのときよりも大きくなり、唇は横に引っ張られ、前歯に引き寄せられるはずです。

 人間の唇は、半開きよりも横には開かないで力を入れた場合、前に突き出ます。半開きよりも横に開いた場合は、横に引っ張られ、前歯に引き寄せられます。日本語のアの音は、唇を横に開かないと出ません。唇を横に開くと、横に引っ張られ、前歯に引き寄せられます。

 さて、英語の場合、[ə] の音を基準に考えると、[æ] の音を出すときは、唇が横に開きますから、唇は前歯に引き寄せられます。ところが、[ʌ] の音を出すときは、唇は [ə] の音より横にも縦にも開きません。ただ力が入るだけです。そうすると、唇は少しだけ前に出ます。日本語のアの音も、英語の [æ] の音も、唇が横に開くので、唇は横に引っ張られ、前歯に引き寄せられますが、英語の [ʌ] の音は、唇が横に開かないので、唇は少しだけ前に出ます。つまり、日本語のアと英語の [ʌ] とでは、唇が前歯に引き寄せられるのか、少しだけ前に出るのか、という違いがあり、全く違う音だということになります。

 Love という言葉は歌の中でしばしば出てきますが、発音は [lʌv] ですので、母音は [ʌ] の音で、唇が横に引っ張られたり、前歯に引き寄せられたりすることはなく、むしろ、少しだけ前に出ます。日本人で love を正しく発音できる人は非常に少ないです。

 Amazing Grace という有名な讃美歌がありますね。最初の歌詞は次のようになっています。

Amazing grace

How sweet the sound

That saved a wretch like me

上の下線を付けた3か所に [ə] の音が出てきます。この音はアではありません。唇が横に引っ張られて、前歯に引き寄せられる音ではありません。唇は、横には引っ張られず、少しだけ前に出ます。YouTubeAmazing Grace - Pentatonix を検索してみてください。また、Elvis Presley Love Me Tender を検索してみてください。

 アの音を出すときは、唇が横に引っ張られて、唇が前歯に引き寄せられます。 [ə] や [ʌ] の音を出すときは、唇が横に開かないので、唇が「余り」、少しだけ前に出ます。

 

言語の自然習得と意識的学習の関係

 言語は自然習得できるに越したことはありません。しかし、日本にいる日本人で第二言語を自然習得できる人は、よほど恵まれた人でしょうね。

 私が通っていた高校では、毎年1人がAFSによる1年間の米国留学をしていました。私も行かないかと声をかけられましたが、その当時の制度では、帰国後、1年下の学年に入ることになっていましたので、行く決心がつきませんでした。それに行っていたら、違った人生だったでしょう。その制度で1年間の米国留学をした人を何人か見てきましたが、全員自然な英語が話せるようになっていました。

 私が大学に就職したときの学生で、後にその大学の教員になった人がいますが、その人は、たしか9年間だったか、米国に留学し、米国で心理士になりました。その人は、留学中に、家を借りて、米国人と共同生活していましが、自然な英語が話せるようになっていました。

 しかし、考えてみると、自然習得のみというのは、かなり特殊な場合であると思われます。例えば、学校に行けず、文字が読めない人たちが世界にはまだ多数おられますが、その人たちは、自然習得のみの人たちということになると思われます。普通は、学校で、母語の意識的学習をします。

 意識的学習のみというのも、かなり特殊な場合でしょう。例えば、古代エジプトの言語の研究者などです。また、神学部では、ヘブライ語ギリシャ語、ラテン語などを学ぶわけですが、それらの古典語学習も、普通は意識的学習のみになります。しかし、それらの古典語を儀式の中で使っている場合があり、今は探せば YouTube などで見つけることができるでしょうから、完全な死語ではなく、それらが「生きた言語」として使われている状況は、一応あります。

 私の場合は、中1のときに、米国人の修道士から、発音記号の読み方を習いました。その一方で、好きな英語の歌をステレオで聴いていました。その後、29歳から34歳まで、4年9か月間、米国に留学しました。発音記号というのは、一応、区別される音の数だけあるわけですが、現実の英語の発音は、国によって、地方によって、微妙に違っています。今は、PodcastYouTube で、自然な英語の音源がいくらでもあります。とくに、私が中学高校のときにはめずらしかった原稿のない英語、つまり考えながら話している英語の音源がいくらでもあるので、その点は別世界になっています。自然習得に近い環境を得ることも一応可能になっていると思われます。

 というわけで、意味のある良質な意識的学習をしながら、自然習得的要素をできるだけ取り入れるということが、第二言語習得の現実的な方法だろうと思われます。

中1のときの米国人の先生の授業

 私が中学1年生となったのは、1972年のことです。当時は、土曜日も午前中だけ授業がありました。私が入学したカトリック系の男子校では、英語の授業は、たしか週に6時間あり、米国人の先生の授業が4時間で、日本人の先生の授業が2時間だったと思います。米国人の先生は、米国東北部出身の30代の白人の修道士でしたが、最初の授業のときに開口一番、Korekara eigo naraimasho と英語なまりが強い日本語で言われたのです。強烈な印象でしたが、新しいことがたくさん学べる授業でした。

 私の世代は、小学校4年生から訓令式ローマ字を国語の授業で習うことになっていたと思います。私は、ローマ字が好きでしたが、ローマ字で sutoppu と書く言葉が世間では stop と書いてあって、stop のほうがかっこいいように見えたのですが、どういう道理で stop と書くのかがわからなかったのですが、中1で米国人に英語を習い始めて、なるほど、stop とは発音どおりに書いてあるだけなのだということがわかり、納得できました。

 発音指導に関しては、Repeat after me と言われて、先生の言われるとおりに言えたら、Good ということになるのですが、もしそのように言えなかったら、何度も繰り返し直される、という指導法でした。次のような忘れられないやり取りがありました。

先生:Repeat after me. "Wind."

生徒:ウィンド。

先生:No. Not "window." "Wind."

生徒:ウィンド。

先生:No. Not "window." "Wind."

生徒:ウィンド。

先生:No. Not "window." "Wind."

生徒:ウィンド。

先生:・・・(深い失望のため息)

 ひと事ながら、その生徒に同情しました。トラウマになったのではないかと心配しました。彼は英語が好きになるはずがないと思いました。

 私は、だいたい先生の発音をまねることができたのですが、最後まで違うと直されたのは、[ɔː] の音でした。Thought, bought, caught などの母音です。先生の言ったとおりに言っているつもりだったのですが、なぜか違うと言われたのです。当時、『カレッジクラウン英和辞典第2版大型版』という辞典があり、中学入学時に買わされたのですが、それの巻頭に発音記号の日本語による解説があり、それを読んで理解でき、それから先生に発音を直されなくなりました。それが中1の初夏のころだったと思います。私は、Repeat after me という指導法をなんとか切り抜けられました。今思えば、その先生の英語は New England 地方の言葉で、[ɔː] ではなくて [ɑː] と言っておられたので、余計に難しかったのではないかと思われます。その英和辞典には、[ɔː/ɑː] の解説があったのかもしれませんね。度重なる引っ越しのため、その辞典は手元になくて、確かめることができませんが。

 その先生は、子音の発音に関しては、口の断面図を使って、それなりに説明はしてくれました。母音に関しても、唇の形の正面図を使って、それなりに説明はしてくれました。

 大学に入学したときに、ドイツ語を学び始め、日本人の先生の発音が日本語なまりに聞こえたので、NHK教育テレビのドイツ語を見ることにしたのですが、そこでドイツ人の先生が Sprechen Sie mir nach と言っていたことが印象的でした。英訳すれば、Speak after me なのですが、要するに Repeat after me ですね。

 一般的に、外国語を学ぶ場合、その言語を母語とする人から学ぶことは望ましいことだと思われますが、それがうまく行けばよいのですが、その言語が母語の人には、なぜその発音ができないのかということが理解できない場合があるという問題もあります。そう言えば、同志社女子大の非常勤講師をしていたときに、講師控室で、中国人の先生が、「どうしてBとPがわからない?BとPは全然違う」と言っておられました。中国語、韓国語、ベトナム語には有気音と無気音がありますが、日本語や英語にはそういう概念はありません。Bは無気音、Pは有気音で、違うわけですが、日本人にはそれが難しいということが、その言語が母語の人には理解できないのだなと思った次第でした。ちなみに、日本語ではBは濁音、Pは半濁音、英語ではBは有声子音、Pは無声子音ですね。