Mark Hara's Blog

よりよい日本・よりよい世界を考える

何が言語の自然習得を可能にするのか?

 母語というものは、非常に不思議なもので、認知症や記憶喪失になっても、母語での会話ができたりします。母語は脳のよほど深いところに入っているのでしょうね。

 私の知り合いで、第二言語を自然習得したと考えられる人たちは、高校生の時にAFSでアメリカに1年間留学した人たちと20代の数年間、アメリカでアメリカ人と同じ家に住んで共同生活をした人です。しかし、私がアメリカに留学していた時に出会った日系人の中には、一世の女性で、夫が二世で英語が第一言語なのに、日本語しか話せない人がいました。言語の自然習得を可能にするものは何でしょうか。

 私は言語の専門家ではありませんが、私が体験的に思うのは、その言語を習得することが生きるために必要であると脳が判断すれば、その言語を自然習得できるのではないかということです。

 逆に、その言語は生きるためには必要ではないと脳が判断すれば、その言語を自然習得することが困難になるものと思われます。おそらく、言語の習得には多大なエネルギーが必要であり、脳はそもそも大量のエネルギーを消費する臓器であり、それこそ生きるために、脳は省エネルギーをしようとするのではないかと思われます。生きるために必要でないことに対しては、脳が強いブレーキをかけるのではないかと思われます。

 英語の早期教育は、はたして有効なのでしょうか。幼稚園・保育所等の就学前児童にとっては、日本語が生きるために必要であり、日本語の習得に脳が多大なエネルギーを消費する段階にあると思われます。そういう段階での第二言語教育は、非常に難しく、効果を得にくいのではないかと思うのですが、事例的にはどうなのでしょうか。1日1時間程度では、生きるために必要とまでは言えないと考えられます。しかし、インターナショナル・スクールのようなフルタイムの学校だと、英語の習得が生きるために必要になるのではないでしょうか。

 私は、キリスト教主義の幼稚園と中学高校に通いましたが、多くの場合、脳は、キリスト教を受け入れることは生きるために必要でないだけでなく、むしろ日本では生きるためには不利になると考え、強いブレーキをかけてくるのではないかと思います。私の場合は、どういうわけか、幼稚園児だったころから、西洋文明に強い憧れを持っていました。私の場合は、どういうわけか、幼稚園児だったころから、英語とキリスト教に強い関心を持ちました。そういう場合は、自然習得とまではいかなくても、少なくとも脳が強いブレーキをかけてくることはなく、英語の発音やキリスト教の世界観を受け入れやすかったのではないかと自分では思っています。

 生きるために何が必要で何が必要でないと脳が判断するかは、人生に大きな影響を与えるのではないでしょうか。