Mark Hara's Blog

よりよい日本・よりよい世界を考える

実用英語の修得法

 私と英語との出会いは、幼稚園児だったときにサンタクロースにレコードプレーヤーをもらい、それで両親が持っていたアメリカのレコードを聴いたことが最初だったのではないかと思われます。その頃、母が新たにミッチ・ミラークリスマス・ソングのレコードを買ってきました。言葉の意味はもちろん全くわかりませんでしたが、何度も何度も同じレコードを聴きました。好きで聴いていたわけです。

 中1で英語を学校で習い始めましたが、中高一貫の私学で、米国人の先生でした。学校の勉強とは別に、家のステレオでビートルズサイモンとガーファンクルなどのレコードを何度も何度も聴きました。好きで聴いていたわけです。中1から高3まで、ESSに所属していました。これも好きでしていたことです。

 英語は自然修得できるに越したことはありませんが、それができる日本人はとくに恵まれた人でしょう。勉強によって実用英語を修得するには、どうすればよいのでしょうか?

 どんな言語でも、発音、文法、単語や決まった言い方を修得する必要がありますが、修得すべきことの量は、この順番に少ないです。発音は、発音記号の数だけしかありません。何十という単位です。百までは行きません。文法は、英語の場合は英語のみの文法の教科書をおすすめしますが、ここで私が言っている文法とは、文法的に正しい文が作れる能力のことです。文法に関しては、文法書の単元の数だけしかありません。百は超えるでしょうが、数百までは行きません。単語や決まった言い方については、何千何万とあります。しかし、重要性は、この順番に重要なのです。修得すべき順番も、この順番です。発音や文法ができていないのに、決まった言い方だけを覚えても、時間の無駄ではないかと思われます。

 私は、1988年から1993年まで、米国の大学院で学んでいました。しかし、そのときは、英語を学んでいたのではなく、英語で神学を学んでいたわけです。今思えば、中1から高3までに修得した英語を使っていたと思われます。

 今は YouTube があります。Podcast もあります。台本のない、考えながら話している動画や音源がいくらでもあります。私の中高生の時代とは比較にならない環境です。オンラインで英会話を習うこともできます。実用英語を修得するには、毎日何時間かは自然な英語を聴く必要があります。

 実は、発音、文法、単語や決まった言い方の3分野の中では、発音を修得することが最も難しいと思われます。発音については、指導者から習う必要があると思われます。私も人の指導をしたことがありますが、大人の場合は、できる人はできるけれども、できない人はできないというのが実情です。日本語の音を忘れて、聴いたとおりに言うことが重要なのですが、それがどこまでできるかは個人差が大きいです。しかし、あなたはできるかもしれませんので、やってみる意味はあると思われます。

Basic Grammar in Use

Grammar in Use Intermediate

 

キリスト教の神は存在するのか?

 日本人の多くは一神教に対して否定的な考えを持っていると思われます。「もし全知全能の神が存在するなら、この世に悲惨なことが絶えないことの説明がつかないではないか。だから、全知全能の神など存在しないのだ」と考えている人が多いのではないでしょうか。

 他方、日本人の多くは初詣をします。そこで参拝している神道の神や仏教の如来や菩薩は存在するのでしょうか。参拝は宗教的な行為です。神仏を拝む人は、その行為に意味があると考えているから、その行為を行なうと考えられます。

 神仏が存在するかどうかを問うても、あまり生産的ではありません。なぜなら、確かめようがないからです。以前に「宗教とは神話と儀式から成る象徴の体系である」という宗教の短い定義をご紹介しました。神を人間が長い歴史の中で作り出してきた擬人的な象徴と見なし、「人間はなぜそのような象徴を作り出したのか、それらの擬人的な象徴は何を意味しているのか」を問うことが、学問的には意味のある問いになります。

 人間は祈る生き物です。それは人類共通の性質であると考えられます。

 ブラウン(Delmer M. Brown, 1909-2011)によると、神道の神に祈る人は、無病息災、家内安全、商売繁盛、国家の安泰など、この世の共同体や個人の生が維持され、強化され、繁栄することを祈ります。その事実から逆に考えれば、神道の神には、そのようなものをもたらす力があると考えられていることになります。すなわち、神道の神は、この世の生命力の象徴であると考えられます。

 同じような分析をキリスト教の神に対して行なうと、どのようなことが言えるでしょうか。

 ルター派神学者ティリッヒ(Paul Tillich, 1886-1965)は、「神とはこの世界の中の一存在者ではない。そういう意味では、〈神は存在する〉という言い方は正しくない。神とは、およそ何かが〈ある〉と言うときに想定されている〈ある〉ということそれ自体、すなわち〈存在そのもの〉のことである」と言っています。なぜ世界があるのか、なぜ私がいるのか。また、なぜ世界はこのような世界なのか、なぜ私は私であって彼や彼女ではないのか。このような問いには答えがないでしょう。しかし、このような問いを人間は問います。それを存在の神秘と呼ぶことにすれば、キリスト教の神は存在の神秘の象徴であると考えられます。

 ユダヤ系の哲学者レヴィナスEmmanuel Levinas, 1906-1995)は、ナチスによって親族のほとんど全員を殺された人ですが、彼は他者について深く考察した人でした。他者の心は人間にとっては謎であり続けます。また、他者の心を自分の好きなように変えることはできません。人間は物理的には他者を殺すことができますが、その他者の「顔」は「私を殺すな」と言い続け、「あなたは私に何をしたのか」と問い続けるとレヴィナスは言っています。他者とは、私に倫理を問う存在です。キリスト教の神は他者の象徴であるとも考えられます。

 苦しみはないに越したことはありませんが、苦しみが全くないという人生も考えにくいでしょう。苦しみを経験するのは、人間だけではないと思われます。現代はプラスチック文明の時代で、食品や医薬品の容器や包装などを考えると、プラスチックがなかったらとても不便ですが、プラスチックのゴミによって海の生き物たちが苦しんでいるという事実はあると思われます。しかし、プラスチックそのものの苦しみということを考えることはできるでしょうか。苦しみは、尊厳ある者だけが経験し得ることなのではないかと思われます。芸術家たちは様々な苦しみを作品に表現してきましたが、そのことによって苦しむ者の尊厳を表現していると考えられます。大きな苦しみを経験したイエスという人を神の子としているのは、他者の苦しみに目を向けることで、他者の尊厳、人間の尊厳に目を向けるという意味があると思われます。

 以上のように考えると、キリスト教の神は、存在の神秘、他者の神秘、苦しみの神秘などの象徴であると考えられます。

キリスト教は男女平等の宗教か?

 世界経済フォーラムが毎年出している世界ジェンダーギャップ報告の2021年版が出ました。この報告は、14の社会統計を用いた非常に客観的なものです。それらは、労働人口、同じ仕事に対する賃金、推定収入、〈地方議員・上級公務員・管理職〉、専門職、識字率初等教育学校の児童数、中等教育学校の生徒数、高等教育学校の学生数、出生数、健康寿命、国会議員数、閣僚数、過去50年間の大統領や首相の在任期間、以上14の社会統計です。調査対象となった166か国中、日本は120位でした。上位10か国は、アイスランドフィンランドノルウェーニュージーランドスウェーデンナミビアルワンダリトアニアアイルランド、スイスでした。アフリカの国が2か国含まれていますが、これらの10か国は、キリスト教徒が多数を占める国々です。それでは、キリスト教は男女平等の宗教なのでしょうか?

 聖書を見る限り、そうとは言えません。旧約聖書の最初の書である創世記のエデンの園の物語の中に、女は、男を助ける者として、男のあばら骨から造られたという話が出てきます。これは、どう考えても、女性蔑視の物語です。新約聖書パウロの手紙にも男尊女卑の内容がしばしば出てきます。旧約聖書の主要部分は、古事記日本書紀より1000年以上前に成立していますし、新約聖書でも、古事記日本書紀より600年以上古いのです。聖書には、人権や人間の尊厳という言葉は出てきません。古代の文書だからです。

 女性の権利は、徐々に拡大してきました。欧米の大学は、男子修道院が原型だったために、男子校ばかりでしたが、19世紀から女子大学が創られました。古代の民主制を除けば、人類初の近代民主主義国家はアメリカ合衆国で、ヨーロッパ初の近代民主主義国家はフランスですが、それらの国でも、参政権は最初は男性にしかありませんでした。女性参政権は19世紀から20世紀に、徐々に実現していきました。

 ヨーロッパは、宗教改革や地動説など、道理によって、それまでの長い伝統や習慣を批判し、改革するということを行なってきました。女性の権利の拡大も、道理によって、それまでの長い伝統や習慣を批判し、改革することによって、徐々に実現したのです。

現在、日本において、最も影響が大きい宗教は何か?

 日本では、大半の人たちが、信じている宗教を問われた場合、「とくに信じている宗教はない」と答えます。そのことから考えれば、現代の日本において、宗教はそれほど大きな影響を及ぼしていないと考えることができそうにも思えます。

 他方、日本には、仏教の寺院や神道の神社が数多く存在しています。そのことから考えれば、仏教と神道が、あえて言えば日本における影響の大きい宗教であると考えられるのではないかとも思えます。実際、日本の宗教の外国の研究者たちはそう考えてきました。例えば、ブラウン(Delmer M. Brown)は、日本人は生に関することでは神道の神社に参拝し、死に関することでは仏教の僧侶に読経を依頼していると考えていました。目に見える現象から考えれば、そういう結論になるでしょう。しかし、あなたは、仏教や神道について、それらがどのような宗教なのか説明できますか?

 加地伸行は、日本において最も影響が大きい宗教は儒教であると言っています。しかし、儒教には、神道神職や仏教の僧侶のような専門職がなく、ある程度以上の大きさの境内を持つ儒教寺院は、東京の湯島聖堂くらいしかないので、儒教の存在は、神道や仏教より見えにくいことは確かです。

 それぞれの国において、最も影響が大きい宗教は、実は、歴史的、地理的に明らかな場合が多いです。例えば、中東のアラビア語圏で最も影響が大きい宗教は、明らかにイスラム教です。ヨーロッパのラテン語文化圏で最も影響が大きい宗教は、明らかにキリスト教です。仏教文化圏は、明らかに東南アジアに位置しています。そういう意味では、漢字文化圏の国々は、儒教文化圏ということになるでしょう。ただし、儒教文化圏は、仏教文化圏と地理的に重なるので、キリスト教文化圏やイスラム文化圏ほどには明らかではないかもしれません。

 それでは、儒教とはどのような宗教なのでしょうか?儒教は、一族の死者を祭る宗教です。儒教には天帝というキリスト教の神に似た概念がありますが、天帝を祭るのは天子、すなわち皇帝であって、皇帝以外の人は、一族の死者を祭ります。人が死ねば魂魄が分離し、魄は遺体とともに墓に行き、魂は遺体から分離して空に行くという神話的世界観があります。儒教の儀式は、墓に酒を注いで魄を、香を焚いて魂を位牌に呼び戻し、死者と生者が会食するという形を取ります。位牌は頭蓋骨の代用で、上部が頭の形をしています。儒教において人々が拝むのは、神や仏のような虚構的存在ではなく、あくまでもかつてこの世で生きていた肉親です。日本の歴史においては、平安時代鎌倉時代など、仏教的な極楽往生が大きな関心事だった時代がありましたが、経済がある程度豊かになった江戸時代は、儒教の現世中心の世界観が優勢になったのではないでしょうか。友以外の人間関係を上下関係でとらえる儒教の人間観は、江戸時代の統治原理でもありました。江戸時代は、寺請制度が実施され、仏教の寺院は国民の個人情報を管理していたわけですが、仏教が担っていたのは死者に関する儀式であり、仏教は儒教と渾然一体となっていたと見ることができると思われます。

 明治以降は、神道が国家の祭祀となりましたが、神道はそもそも現世的な望みの実現を願う呪術的性格が強く、倫理的な面が希薄だったと言えます。ですから、国家神道は、江戸時代の儒教道徳を継承したと思われます。

 上記のような日本の歴史的な事情を考えると、儒教の影響が大きいことが理解できるのではないでしょうか。日本においては、仏教と神道が目に見える宗教として存在していますが、それらの宗教が行なっていることは、儒教的世界観、人間観の維持、継承であるとさえ言えるのではないかと思われます。他の先進国と比較した場合、日本社会に顕著な特徴として、臓器提供の少なさ、国民の大半が死刑制度を支持していること、根強い男尊女卑、性的少数者の尊厳と権利への無理解などを挙げることができると思われますが、これらの特徴は、すべて儒教の世界観、人間観に由来していると言っても過言ではないと思われます。

普遍は存在するのか?

 哲学史では、普遍は存在するのかという問題は、オッカムのウィリアムが提起した普遍論争を指します。すなわち、プラトンの言うイデアは実在するのかという問題のことです。その問題については、「無限は実在するのか?」で触れましたので、そちらをご覧ください。

 実は、普遍の問題は、一般的にはあまり指摘されていませんが、世界標準となっている普遍的人権思想と日本の国家神道との対立の問題として現在の問題であり、日本社会にとっては生活の質や幸福度を左右する重大な問題なのです。

 数学と自然科学、そしてそれらに基づく科学技術は、人類の文明社会で受け入れられています。文化史的には、数学は古代ギリシャの世界観に起源を持っていますし、自然科学はキリスト教の世界観に起源を持っていますが、現在は、それらは人類に普遍的に成り立つものとして文明社会で受け入れられていて、国家神道もそれらを国家に繁栄をもたらす「洋才」として受け入れています。

 それでは、世界人権宣言が謳っている普遍的人権はどうでしょうか?人権問題は内政問題でしょうか?それとも、人権は普遍的な権利なので、各国政府には人権を否定したり、抑圧したりする権利はないと見なすべきなのでしょうか?国連が採択した世界人権宣言を基礎とする様々な人権条約の体系から言えば、人権は、内政問題ではなく、普遍的な権利であるということになります。

 ところで、日本の教育基本法が2006年(平成18年)に全面改正されたことをご存じでしょうか?文部科学省のサイトに教育基本法の新旧対照表があります。改正前の前文にあった「普遍的」という文言が現行法では削除されています。自民党の日本国憲法改正草案対照表においても、現行憲法の前文にある「人類普遍の原理」という文言が改正草案では削除されています。なぜこのような現象が見られるのでしょうか?

 人類史上、文明と言えるものとしては、具体的には、古代のローマ帝国や中世の神聖ローマ帝国ラテン語文明や、中国の漢字文明などがありました。現代では、言語としては、英語がそのような地位にあると思われます。現代では、また、ほとんどの人が洋服を着ています。すなわち、西洋文化が事実上、文明の地位にあると言えます。文明には中心があり、周辺諸国は中央の文化を身につけることによって野蛮ではなく文明社会の一員であると見なされるという構造があります。文明には、そういう意味で、ある程度の普遍性があります。すなわち、文明は文明圏を形成し、その範囲で普遍性を持ちます。

 日本は、世界史的な文明になったことはないし、今後もそうなる可能性は低いでしょう。国家神道の世界観では、文明とは勢力が大きい文化にすぎず、日本の歴史や文化の唯一無二性にこそ価値があると考えていると思われます。日本政府は、外交においては、普遍的人権を認めるかのように振る舞いながら、内政においては、人権は内政問題だと考えているように思われます。すなわち、内政方針が「本心」であり、「外面(そとづら)」は「仮面」であり、「偽りの姿」であるということになると思われます。

 他方、西洋文明の一つの基礎であろうと考えられるローマ・カトリック教会は、国連が採択した世界人権宣言を基礎とする様々な人権条約の体系を基本的に認めながら、人権の本質的な根拠を自然法に見ています。すなわち、人間の共通の本性が人間の尊厳の根拠であると考えていると思われます。ちなみに、カトリックとは普遍という意味です。

 国家神道は、人間観は文化の一部であり、各国の文化には独自性があってよいのであり、各国には人間観を含む独自の文化を維持し、継承する権利があると考えていると思われます。他方、西洋文明は、人権は人間の共通の本性が要求するものであり、ゆえに普遍的であり、各国には人権を否定したり、抑圧したりする権利はないと考えていると思われます。私は、この問題については、西洋思想が正しいと考えていますが、国家神道の思想は日本では依然として強力であり、日本における生活の質や幸福度を左右していることは確かです。人権が普遍的かどうかという問題は、日本社会にとっては重大な問題なのです。

 現代の国際社会は、人権は人間の本性に根拠を持つがゆえに普遍的であるという原則を認めています。他方、国家神道は、普遍的人権思想は西洋思想にすぎず、日本には該当しないと考えていると思われます。このような国家神道の思想は、日本社会の生活の質や幸福度を上げる方向には作用せず、むしろ下げる方向に作用していると思われます。さらに、日本経済にプラスには作用せず、むしろマイナスに作用していると思われます。

無限は実在するのか?

 無限は実在するでしょうか?限りのないものなどない、だから無限なものなどない、とも考えられます。それでは、時間や空間はどうでしょうか?無限の時間、無限の空間は実在するのではないでしょうか?また、無限というと、無限に大きいこと、すなわち無限大をイメージするかもしれませんが、無限小という概念もあります。今、概念と言いましたが、概念として考えられることと、実在することとは、普通は別のことであると考えられるでしょう。例えば、いわゆる宇宙人が存在することを想像することはできますが、宇宙人の実在は、具体的には明らかになっていません。

 哲学史に、プラトンイデア論と呼ばれる考え方があります。例えば、幾何学の図形を考えた場合、完全な円は実在するでしょうか?「完全な円は概念上の存在であり、現実の円は有限の精度を持つ、実用上、円と言えるものであって、完全な円ではない、だから、完全な円などない」と普通は考えます。しかし、プラトンは、そうは考えませんでした。「完全な円こそが永遠不変の真の実在であり、日常生活の世界に存在する個々の円は、円のイデアを分有しているがゆえに円であると言えるが、永遠不変ではなく、遅かれ早かれ朽ち果てる存在である」と彼は考えました。この考え方の特徴は、「この世」に存在する個々の円よりも、天上界、すなわちイデア界に存在する円のイデアこそが永遠不変の真の実在である、と考えたことにあります。

 プラトンは、また、「人間には理性がそなわっていて、イデア界の真理を論理によって認識できる」と考えました。数学では、論理によって定理を証明します。実験や観察によって確かめようとはしません。数学は、現代の科学技術に不可欠の学問ですが、思想史的には、プラトン主義の産物であると言えると思われます。

 哲学史には、また、アンセルムスの「神の存在証明」と呼ばれているものがあります。それは、大体、次のようなものです。

・神とは、それ以上偉大なものが考えられないものである。(神の定義)

・私の頭の中にだけあるものと、私の頭の中にもあり現実にも存在するものと、どちらが偉大か?当然、後者のほうが偉大である。

・ゆえに、神は実在する。

 アンセルムスの「神の存在証明」は、神の定義から神の実在を導き出しています。これは有効な「証明」なのでしょうか?後に、カントは、「神の存在は、証明できないが、倫理が成り立つために要請される」としました。アンセルムスの神の定義は、一種の無限概念と言えるでしょう。つまり、アンセルムスの「神の存在証明」は、無限は実在すると言っているとも解釈でき、一種のプラトン主義であると言えると思われます。

 哲学史上、プラトン主義は、オッカムのウィリアムによって批判されるに至りました。彼は、「プラトンが言うイデアは、言葉の意味であって、それを五感で確かめられないイデア界や天上界に実在すると想定することは不必要であり、真の実在は、この世界の個々のもの、すなわち個物であって、イデアではない」と主張しました。この考え方は、現代の常識的な世界観に近いでしょう。この考え方は、「無限は存在しない、神も存在しない」という考え方に至る道に一歩踏み出したことになると思われます。

 しかし、哲学者ホワイトヘッド(1861-1947)は、「西洋哲学史プラトンへの脚注である」と言いました。ヘレニズム(ギリシャ思想)とヘブライズム(ユダヤ思想)は西洋思想の2つの柱であると言われます。イデアは一種の無限概念であるとも言えます。神の概念も一種の無限概念です。ヘレニズムの世界観には、無限は実在するという思想が歴史的にはありました。それだけにとどまらず、無限は必然的に実在するという考え方さえあったと言えます。

「キリストは復活した」とはどういうことか?

 「キリストは復活した」とはどういうことでしょうか?「サンタクロースなどいない」という考え方から言えば、「死んだ人が復活することはあり得ない。嘘に決まっている。そんなありもしないことを信じている人は阿呆である」でおしまいです。もう少し詳しく考えると、死んだ人が蘇生したとしても、遅かれ早かれ寿命を迎えて、最終的には死ななければならないでしょう。ですから、キリスト教の教義上は、「神の子が天から降ってきて、様々な奇跡を行ない、死んで復活して、天に帰っていった」ということになっています。E. T. という映画をご覧になったことがありますか?あの物語の構造はキリスト伝そのものでした。E. T. が天から降ってきて、様々な奇跡を行ない、死んで復活して、天に帰っていきました。

 聖書の原著者による直筆の原稿は残っていません。様々な写本が残っているだけです。写本というものは、微妙な違いがあるもので、内容が完全に一致するものではありません。それで、様々な写本を比較検討して、原著者による本文を推定する作業が必要となります。そのような作業を経て推定された本文を翻訳したものが、現在の聖書です。知られていなかった写本の発見や写本の評価の変化等によって、推定される本文が変わることもあります。そういう意味でも、聖書を絶対視することは、学問的にはおかしなことです。

 イエスが十字架で死んだのは西暦30年ごろであると考えられています。新約聖書の文書中で最も古いとされるパウロの手紙は50年代に書かれたと考えられていますが、すでに復活信仰が成立しています。福音書については、マルコによる福音書が70年代、マタイによる福音書ルカによる福音書が80年代、ヨハネによる福音書が90年代の成立と考えられています。4つの福音書にはそれぞれ復活物語が含まれていますが、墓が空であったという点以外は、微妙に違っています。

 イエスが処刑されたのは、福音書によると、当時のユダヤ教の権力者に危険人物と見なされたからでした。イエスは、福音書によると、大工または大工の子で、庶民でした。ユダヤ教の学校で勉強したわけではありませんでした。宗教者としては無資格者だったわけです。しかし、彼の教えや奇跡や人柄に多くの人たちがひきつけられ、社会現象になりました。

 権力者が都合の悪い人を殺すということは、歴史上、たびたび行なわれてきました。イエスは殺されましたが、彼が始めた共同体は、そのことで終わらず、現在も続いています。ローマ帝国の国教になってからは、キリスト教が権力になってしまったという歴史はありますが。権力者が都合の悪い人を殺すことは、たびたび起こることですが、そのことによってある思想をなきものにすることは、できないことが多いのではないでしょうか。イエスが始めた運動は、その後、権力になってしまったとはいえ、今でもキリスト教として続いています。彼が始めた共同体は、彼の死によって終わらず、今も続いています。これを復活と見ることもできると思います。